2008年2月28日木曜日

第3話 結城の乱に破れ海老原に改名

吉忠
藤原姓海上氏 号信濃守、結城朝光之苗裔也、而為世臣永享10年巳末、足利左兵衛督源持氏有故滅亡、二公子春王丸、安王丸潜自鎌倉奔千総刕、結城七郎氏朝君、男六郎持朝君、卒七百餘騎迎之、扠得鎌倉敗残兵一万餘而保守千結城、幕府義教公聞之、令武田太郎信重、小笠原信濃守政康、山名中務少輔煕貴、今川駿河守範政、赤松上総介義範将、師関東八刕与奥羽之兵會上杉憲資伐之、而佐竹宇都宮、千葉等馳加、騎卒十万餘、三月五日攻結城、氏朝君、運簟策、力防御、圍守三年不能克至於是細川近江守持春、男右馬頭持賢、山名右金吾等来會戦、氏朝君益死守、而信重射矢文為反間、由是城中生異心、縦火焚焼城櫓、氏朝君、父子力盡、直突敵陣而死、吉忠千葉新介、圯圍救二公子遁去、憲實以大軍追之甚急、吉忠父子返馬力戦而死

土岐家之臣別家海老原五郎左衛門所持の系図は更に続きます。

→吉廉 父一所戦死 海上兵部
→吉武 海老原又五郎
    以祖父吉忠父吉廉、忠死千官敵結城家之故、家名改海老原、且以生千勢海老原村之故也

 海上信濃守頼胤(吉忠)には孫がいました。頼胤父子は結城合戦で戦死しますが孫の吉武は生き残りました。城の外で祖父と父の帰りを待っていたのでしょうか。それとも、落城の前に城を抜け出すことができたのでしょうか。いずれにしろ、生き残りました。しかし合戦のあと、何処も周りは敵ばかりだったに違いありません。おそらく、生きた心地もしなかったでしょう。かつては、鎌倉府奉行を勤めた海上頼胤の孫ではありますが、幕府軍についた海上氏本家を頼るわけにいかず、しばらく孤独な生活を強いられていたと思われます。
 このような環境にあって、吉武は海上の姓を捨てます。伊勢の国海老原村生まれの海老原吉武と名乗り、父は吉廉、祖父は吉忠と名前を変えました。海老原村は現在の四日市市内にあります。関東の地から遠く離れた海老原村の出だと言ったのは敵から身を守る方便であったような気がします。海老原村は伊勢神宮にも近く、またこの地は東海道を京都に向かう街道のはずれでもあります。結城氏は京に別宅を持っていましたから、信濃守頼胤も結城氏に従って道中の途中この地を訪れていたのでしょうか。
  


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上図の赤ピンが結城城址、黄ピンが海老原村の地です。


 もともと海上氏は千葉氏の分流です。千葉氏は千葉常胤(1130年ごろ)以降、嫡流は千葉介(ちばのすけ)を名乗り、名前に胤の一字を付けています。また海上氏は常胤の六男胤頼を祖として下総国海上郡海上庄(現在の千葉県銚子市付近)を中心に発展し、海上千葉氏を名乗っていました。千葉氏宗家が千葉介と称したのに対し、海上宗家は千葉介(ちばしんすけ)と称し、名前に千葉氏と同じ胤の一字を付けていたようです。このことから、系図に書かれている「吉忠千葉新介」の呼び方からも、吉忠がもともと胤の字を付した名前を持つ人物(頼胤)であったことが伺えます。