2008年1月14日月曜日

第1話 海上信濃守

 応永22年(西暦1415年)、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と補佐役の関東管領上杉禅秀が越幡六郎の罪科の評価相違に端を発して刀で争う騒動、所謂上杉禅秀の乱が起こりました。
この騒動に加わっていたのが、我が祖先海上(うなかみ)信濃守です。

 海上氏は、当時関東の下総国海上郡を治めており1370年頃から代々奉公衆として鎌倉公方に仕え、この時期「御所奉行人」8人の中の1人だったとの記録が残っています。鎌倉府は、足利尊氏が室町幕府を開いた時から鎌倉を重視し、弟の直義を鎌倉公方として派遣したのが始まりですが、持氏の直情型の性格から幾度となく幕府から任命される鎌倉公方補佐役の関東管領に逆らい騒動をおこしていたようです。
 この事件の持氏の態度に業を煮やした禅秀は、持氏の叔父であり持氏と対立関係にあった足利満隆と組んで100人あまりを引き連れ、鎌倉府御所にいる持氏の寝込みを襲い捕らえようとします。しかし、危険を察知したお側の者が泥酔していた持氏を起こし、危ういところで海上筑後守、信濃守親子ら500騎の伴を従えて岩戸の上の山道を辿り十二所から小坪、前浜を通り上杉憲基の屋敷に逃げ込んだと「禅秀の乱」を詳しく描写した鎌倉大草紙に書かれています。


 鎌倉府御所跡付近(鎌倉市浄明寺4丁目:現在は住宅地)から十二所方向を取った写真です。この地はほぼ山に囲まれており、方向からすると写真正面に写っている山を越えて逃げたのでしょうか。


十二所から見た左小坪方面、右鎌倉方面を撮った写真です。この道は古くからあるので、おそらくこの交差点を左に曲がり、小坪に向かったと思われます。


 翌々日から持氏、禅秀両軍勢による戦いが始まりましたが、持氏軍は劣勢に立たされ、30騎を引きつれ化粧坂(源氏山)で戦っていた海上親子も負傷し、無量寺に退ぞいています。


 写真正面が化粧坂(けわいざか)になります。右方向が源氏山の中心でさらにその奥を下ると無量寺です。








 無量寺は今は残っていませんが、鎌倉市扇ヶ谷に昔から無量寺跡と呼ばれる地が佐助隋道手前にあり、それを裏付けるように無量寺と思われる遺跡が数年前に発見されました。しかし、今は遺跡も埋められ住宅地となっています。




 その後、持氏の劣勢は続き上杉憲基邸に匿われていた持氏は一旦、鎌倉を脱し駿河の今川上総介範政の地に逃れましたが、翌年幕府の援助を受けて反撃に出て、ついには鎌倉を奪還し首謀者である禅秀上杉家は滅亡、足利満隆は自害して乱は平定されました。この後、海上親子はしばらくの間、持氏の奉公衆を務めていたようです。


大きな地図で見る

 上の地図は鎌倉府御所から逃げる持氏が辿ったルートと海上信濃守が化粧坂で戦い、無量寺に退いたルートを示しました。
 次回は、さらに持氏が起こした永享の乱とそれに続く結城合戦に参加した海上(うなかみ)信濃守について記したいと思います。

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