2008年3月18日火曜日

第4話 結城家再興し、海老ヶ島城の城主に

 永享の乱で鎌倉公方足利持氏を破った足利将軍義教(よしのり)も専制政治が災いし、結城の合戦から2ヶ月後に播磨守護赤松満祐の屋敷で、謀殺されます。
 そして8年が経過し、足利持氏の3男成氏(なりうじ)が幕府に許されて鎌倉公方を継ぎ、結城家も再興します。同時に、海老原家初代吉武は、祖父海上頼胤と共に敗死した結城氏朝の四男成朝に仕えることになります。1449年のことです。
 結城家は再興を果たしはしましたが、周囲の覇権争いは厳しいものがありました。特に北の宇都宮氏と南の小田氏とは宿命的な対立関係にあり、常に戦いの日々が続きます。そうした中で、結城成朝は応仁元年(1467年)結城城の南に小田氏と対峙する出城、海老ヶ島城(明野町松原)を築きます。そして、海老原氏を城主としました。
 郷土史「杉山私記」に海老ヶ島城について次のように記されています。「寛正2年-応仁元年(1461年-1467年)に普請され、応仁元年2月5日に太守結城成朝の嫡男秀千代(輝朝)が入城し、海老原の祖となった」。土岐海老原家系図では、海老原吉武の子が結城家の主名、朝の一字を貰い朝賢を名乗り、また官名日向守を与えられていますので、年代的にもこの海老原朝賢が初代城主であったのではないかと思われます。 しかし、出城であり、小田氏との100年近くに渡る勢力争いの中で、海老ヶ島城は小田氏と結城氏の間で幾度も城主が入れ替わることになります。海老原氏がいつまで城主としてこの城を守ったのかは記録がなく、不明です。

 

大きな地図で見る

地図上のマークをクリックすると結城城、海老ヶ島城、小田城を判別できます。

海老ヶ島城跡




 
 
 
 
 海老原家吉武(初代) - 朝賢(日向守) - 朝親 

 残念ながら、土岐家の臣別家海老原五郎左衛門所持の系図で筆者が把握できているのは、この3代までです。このあと、われわれ津山海老原家伝之系図につながりますが、我が系図は徳川家康次男結城秀康に仕える頃から始まる1590年以降のことであり、海老ヶ島城主となった時代との間に100年以上のブランクが生じています。残念ながらまだ、この間を埋めることができないでいます。 今後、調査し判明したら改めてUPしたいと思います。

2008年2月28日木曜日

第3話 結城の乱に破れ海老原に改名

吉忠
藤原姓海上氏 号信濃守、結城朝光之苗裔也、而為世臣永享10年巳末、足利左兵衛督源持氏有故滅亡、二公子春王丸、安王丸潜自鎌倉奔千総刕、結城七郎氏朝君、男六郎持朝君、卒七百餘騎迎之、扠得鎌倉敗残兵一万餘而保守千結城、幕府義教公聞之、令武田太郎信重、小笠原信濃守政康、山名中務少輔煕貴、今川駿河守範政、赤松上総介義範将、師関東八刕与奥羽之兵會上杉憲資伐之、而佐竹宇都宮、千葉等馳加、騎卒十万餘、三月五日攻結城、氏朝君、運簟策、力防御、圍守三年不能克至於是細川近江守持春、男右馬頭持賢、山名右金吾等来會戦、氏朝君益死守、而信重射矢文為反間、由是城中生異心、縦火焚焼城櫓、氏朝君、父子力盡、直突敵陣而死、吉忠千葉新介、圯圍救二公子遁去、憲實以大軍追之甚急、吉忠父子返馬力戦而死

土岐家之臣別家海老原五郎左衛門所持の系図は更に続きます。

→吉廉 父一所戦死 海上兵部
→吉武 海老原又五郎
    以祖父吉忠父吉廉、忠死千官敵結城家之故、家名改海老原、且以生千勢海老原村之故也

 海上信濃守頼胤(吉忠)には孫がいました。頼胤父子は結城合戦で戦死しますが孫の吉武は生き残りました。城の外で祖父と父の帰りを待っていたのでしょうか。それとも、落城の前に城を抜け出すことができたのでしょうか。いずれにしろ、生き残りました。しかし合戦のあと、何処も周りは敵ばかりだったに違いありません。おそらく、生きた心地もしなかったでしょう。かつては、鎌倉府奉行を勤めた海上頼胤の孫ではありますが、幕府軍についた海上氏本家を頼るわけにいかず、しばらく孤独な生活を強いられていたと思われます。
 このような環境にあって、吉武は海上の姓を捨てます。伊勢の国海老原村生まれの海老原吉武と名乗り、父は吉廉、祖父は吉忠と名前を変えました。海老原村は現在の四日市市内にあります。関東の地から遠く離れた海老原村の出だと言ったのは敵から身を守る方便であったような気がします。海老原村は伊勢神宮にも近く、またこの地は東海道を京都に向かう街道のはずれでもあります。結城氏は京に別宅を持っていましたから、信濃守頼胤も結城氏に従って道中の途中この地を訪れていたのでしょうか。
  


大きな地図で見る
上図の赤ピンが結城城址、黄ピンが海老原村の地です。


 もともと海上氏は千葉氏の分流です。千葉氏は千葉常胤(1130年ごろ)以降、嫡流は千葉介(ちばのすけ)を名乗り、名前に胤の一字を付けています。また海上氏は常胤の六男胤頼を祖として下総国海上郡海上庄(現在の千葉県銚子市付近)を中心に発展し、海上千葉氏を名乗っていました。千葉氏宗家が千葉介と称したのに対し、海上宗家は千葉介(ちばしんすけ)と称し、名前に千葉氏と同じ胤の一字を付けていたようです。このことから、系図に書かれている「吉忠千葉新介」の呼び方からも、吉忠がもともと胤の字を付した名前を持つ人物(頼胤)であったことが伺えます。

 

 

2008年1月27日日曜日

第2話 永享の乱から結城合戦、そして海老原の系図のはじまりへ

 1415年に始まった「上杉禅秀の乱」を制した鎌倉公方足利持氏(もちうじ)は、23年後の1438年には関東管領上杉憲実(のりざね)との間で「永享の乱」をおこします。急死した足利4代将軍義持の跡継ぎとして、義持の兄弟4人からくじ引きで選ばれた義教(よしのり)に対して、おさまらないのが自分も足利本家の血を引き将軍の座を狙う持氏で、義教の将軍就任後、反幕府の軍事行動を公然と開始します。そしてついに1438年(永享10年)嫡子である賢王丸の元服に際して、将軍から名前の1文字を貰うという慣例を破り義久と名付けたことにより、上杉憲実との仲が破局し、領国上野に引き揚げた憲実を討伐するため、持氏が出陣したことが乱の発端です。この機に乗じて将軍義教は即座に関東の諸豪族に持氏討伐を命じ、また京から幕府軍を東進させて挟み撃ちにあった持氏は降伏します。そして1439年2月10日、鎌倉の永安寺に篭っていた持氏は上杉憲実の部下の襲撃を受け、また義久も相模国報国寺で自害します。

この場面から、土岐家臣別家(海老原五郎左衛門所持)に伝わる海老原家の系図は始まります。

吉忠
藤原姓海上氏、号信濃守、結城朝光之苗裔也、而為世臣永享10年巳末、足利左兵衛督源持氏有故滅亡、二公子春王丸、安王丸潜自鎌倉奔千総刕、結城七郎氏朝君、男六郎持朝君、卒七百餘騎迎之、扠得鎌倉敗残兵一万餘而保守千結城、幕府義教公聞之、令武田太郎信重、小笠原信濃守政康、山名中務少輔煕貴、今川駿河守範政、赤松上総介義範将、師関東八刕与奥羽之兵會上杉憲資伐之、而佐竹宇都宮、千葉等馳加、騎卒十万餘、三月五日攻結城、氏朝君、運簟策、力防御、圍守三年不能克至於是細川近江守持春、男右馬頭持賢、山名右金吾等来會戦、氏朝君益死守、而信重射矢文為反間、由是城中生異心、縦火焚焼城櫓、氏朝君、父子力盡、直突敵陣而死、吉忠千葉新介、圯圍救二公子遁去、憲實以大軍追之甚急、吉忠父子返馬力戦而死














持氏自害の後、下野日光山にしばらくの間落延びていた幼子の安王丸と春王丸は、持氏の強力な支持者であった結城基光の孫、結城氏朝(うじあさ)を頼ります。永享の乱では静観していた氏朝でしたが、覚悟を決め息子の持朝と共に700騎を従えて結城城に迎え入れます。これに呼応した反幕府(関東独立)姿勢を取る諸将は続々と結城城に集結しました。

 ここで、鎌倉公方持氏、結城氏、海上氏の関係について述べておこうと思います。
 結城氏(下総守護結城朝光が祖)は、持氏の時代には結城氏朝の祖父結城基光が鎌倉府内に「結城の部屋」を持つほど鎌倉公方と緊密な関係にあり、前投稿に記した禅秀の乱では海上信濃守頼胤(よりたね)と共に戦っています。両人とも持氏の強力な支持者でありましたが、永享の乱の時には結城基光はすでに他界し、氏朝は幕府の命令に従い、下野の所領に留まります。一方、海上信濃守頼胤も家督をすでに譲っており信濃守を継いだ胤栄は、乱を静観します。
頼胤については、永享の乱の2年前「下野国佐野庄内富地郷」の領地半分を除病延命、武運長久、寿命長延、子孫繁栄を願い信濃守として寄進したと鎌倉鶴岡八幡宮の史料に残されています。除病祈願していることから、大病を患ったことが原因で家督を譲ったのでしょうか。


 話を結城城に戻します。(右写真は結城城址)
 永享の乱に敗北した結城城集結の反幕府勢力の不利は否めず、幕府側の圧倒的な優位に多くが分裂し、敵味方に分かれたようです。海上家も長年持氏に仕えた前信濃守頼胤は結城城に入りますが、家督を継いだ信濃守海上胤栄は幕府側につきます。
 結城氏朝軍は1年間に及ぶ篭城により食料も尽き、さらに1441年3月5日城内の出火により、氏朝、持朝親子は敵陣に突撃して果てます。また海上信濃守親子は2公子と共に逃げますが、追ってきた幕府軍と戦い命を落とします。結局2公子は捕らえられ、京に護送される途中美濃で斬首されています。

 この乱は「結城の合戦」として世に広く知られています。この乱に参加し、討ち死にしたのが海上信濃守頼胤であると前述しましたが、系図では吉忠と言う名となっています。なぜ、名前を変えたのか?。次の投稿で明らかにしたいと思います。

2008年1月14日月曜日

第1話 海上信濃守

 応永22年(西暦1415年)、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と補佐役の関東管領上杉禅秀が越幡六郎の罪科の評価相違に端を発して刀で争う騒動、所謂上杉禅秀の乱が起こりました。
この騒動に加わっていたのが、我が祖先海上(うなかみ)信濃守です。

 海上氏は、当時関東の下総国海上郡を治めており1370年頃から代々奉公衆として鎌倉公方に仕え、この時期「御所奉行人」8人の中の1人だったとの記録が残っています。鎌倉府は、足利尊氏が室町幕府を開いた時から鎌倉を重視し、弟の直義を鎌倉公方として派遣したのが始まりですが、持氏の直情型の性格から幾度となく幕府から任命される鎌倉公方補佐役の関東管領に逆らい騒動をおこしていたようです。
 この事件の持氏の態度に業を煮やした禅秀は、持氏の叔父であり持氏と対立関係にあった足利満隆と組んで100人あまりを引き連れ、鎌倉府御所にいる持氏の寝込みを襲い捕らえようとします。しかし、危険を察知したお側の者が泥酔していた持氏を起こし、危ういところで海上筑後守、信濃守親子ら500騎の伴を従えて岩戸の上の山道を辿り十二所から小坪、前浜を通り上杉憲基の屋敷に逃げ込んだと「禅秀の乱」を詳しく描写した鎌倉大草紙に書かれています。


 鎌倉府御所跡付近(鎌倉市浄明寺4丁目:現在は住宅地)から十二所方向を取った写真です。この地はほぼ山に囲まれており、方向からすると写真正面に写っている山を越えて逃げたのでしょうか。


十二所から見た左小坪方面、右鎌倉方面を撮った写真です。この道は古くからあるので、おそらくこの交差点を左に曲がり、小坪に向かったと思われます。


 翌々日から持氏、禅秀両軍勢による戦いが始まりましたが、持氏軍は劣勢に立たされ、30騎を引きつれ化粧坂(源氏山)で戦っていた海上親子も負傷し、無量寺に退ぞいています。


 写真正面が化粧坂(けわいざか)になります。右方向が源氏山の中心でさらにその奥を下ると無量寺です。








 無量寺は今は残っていませんが、鎌倉市扇ヶ谷に昔から無量寺跡と呼ばれる地が佐助隋道手前にあり、それを裏付けるように無量寺と思われる遺跡が数年前に発見されました。しかし、今は遺跡も埋められ住宅地となっています。




 その後、持氏の劣勢は続き上杉憲基邸に匿われていた持氏は一旦、鎌倉を脱し駿河の今川上総介範政の地に逃れましたが、翌年幕府の援助を受けて反撃に出て、ついには鎌倉を奪還し首謀者である禅秀上杉家は滅亡、足利満隆は自害して乱は平定されました。この後、海上親子はしばらくの間、持氏の奉公衆を務めていたようです。


大きな地図で見る

 上の地図は鎌倉府御所から逃げる持氏が辿ったルートと海上信濃守が化粧坂で戦い、無量寺に退いたルートを示しました。
 次回は、さらに持氏が起こした永享の乱とそれに続く結城合戦に参加した海上(うなかみ)信濃守について記したいと思います。